三密加持が究極だとしても、三密全てがそろわなければ無意味ということではない
そもそもの話、お釈迦様が悟りを開いた時に、三密加持を修行したという話は、一切伝わってはいない
強いて言えば、坐と観想の、身と意の二密であろうか
真言を唱えたということではない
ただ、これをもって、三密加持を、仏説では無いと言うことは可能でも、仏教では無いとまで言うことは出来ず、仏教瞑想技術の進化形とすれば、仏教の範疇に収まる
仏教は、仏滅後どうするかという問題と向き合い続けてきたのであって、なぜならば、生きて死ぬ人間は、自分自身の生老病死の問題を解決する方法を、仏滅後であろうとも求めざるを得ないからである
仏教の瞑想において、その姿勢は、いわゆる坐禅の姿勢を求められる
しかし、これ、必ず坐して瞑想しなければならない、という意味ではない
姿勢を正すことを強調する修行法は確かにあるのだが、では、坐して仏となったら、寝たら、その時は仏では無くなるのか
行住坐臥、仏は仏のままである
経行(きんひん)といって歩きながらお経を唱えるのは、釈尊在世からあった
であるから、歩きながら、椅子に座って、ベッドで寝ながら、満員電車に揺られながら、瞑想は可能であると考えている
最も効率のいいのが坐して瞑想ということであろうけれど、こだわり過ぎれば何もできなくなると思う
本覚思想は、絶対に理解しておかなければならないと思う
人を導くのに、恐怖や暴力ではなく、利益と快適さでなければならない
欠点を探して糾弾するのではなく、長所を見出し伸ばさなければならない
つまり、怒りからでなく、慈悲から始めなければならない
なぜならば、今、道に迷い間違っていても、根底には仏性があるからである
今世で立ち直れなければ、来世がある
末那識と阿頼耶識は永遠に続くのだから、あせらず、今やれることをやればいいと思っている