ある日、フクロウさんが川面をのぞくと、仏のように慈しみに満ちた太陽に照らされて、浅瀬の底で、何かがきらりと光りました。泥の中から、美しい宝石(仏となる可能性)がほんの少しだけ顔をのぞかせています。
「あの宝石は、もともと川底にあるのかな。泥をかぶっているだけなのかな」
そこへ、河辺に集まる妖精さんたちが、ふわりふわりとやってきました。
露の妖精さんが、最初に、おずおずと言いました。一番小さいけれど、一番年長さんなのです。
「宝石があるのかないのか、わたしには見えないんだ。あっても小さくて、大きな流れが来るまでは、光らないかもしれないよ」
宝石が小さすぎて見えないのは、仏となる種子があるかないか、あっても弱いかどうかが、外から見てもわからないことのたとえです。
この例えは、唯識の五姓各別の考え方です。法相宗では、衆生が生まれつき持つ種子の違いによって、成仏できる道が五つに分かれると説きます。
「菩薩定姓」は仏になる無漏種子をもつ人。
「声聞定姓」は阿羅漢になる種子をもつ人。
「独覚定姓」辟支仏の悟りに至る人。
「不定姓」はまだ決まらず縁によってどの道にも進みうる人。
そして「無姓」は、仏になれない人。
妖精さんたちが口々に言いました。
「まるで、生まれによる差別だね。でもね、仏教には、仏になる可能性についての、もっと深い教えがあるんだ」
水の妖精さんは、水面に指先をひたして言いました。
「泥をそっとどければいいのよ。少しずつ、少しずつ」
大乗仏教は、美しい宝石(仏になる可能性)は、もともとあって、覆いを取り除けばよいと説くのです。これは、生まれによって成仏の道が分かれることはない、と説く如来蔵の考え方を土台にしています。
蛍の妖精さんは、日の光をともして輝く水の中をじっと見つめ、言いました。
「泥も水も光も、みんなひとつながりに見てごらん。泥をかぶっていても、宝石はもともと輝いていたんだと気づくよ。大きさや形がどんな宝石でも、泥のかぶり方が違っても、みんな同じ輝きがあるんだ」
これは天台の、すべての者が仏になる法華一乗の考え方のようです。
伝教大師は、天台の、皆が救われる大乗仏教の精神に基づく、純粋な大乗の戒律を授ける戒壇を比叡山に設けることをめざし、朝廷に強く願い出ました。五姓各別を説く法相の徳一とは論争になり、奈良の大寺の僧とも戒壇をめぐって対立しました。この対立は、のちの世まで続き、平安中期には、元三大師が、応和の宗論で法相の僧と法華一乗の立場から論じ合いました。
日本の大乗仏教の姿は、こうした議論を通じて鮮明になり、後世に大きな影響を与えました。その流れの中で、比叡山からは、のちに多くの宗派の開祖が生まれることになります。
風の妖精さんは、水面すれすれをくるりと舞って言いました。
「川の流れの動きに身をゆだね、川の流れの音に声を合わせ、川の心に自分の心を重ねてごらん。そうしたら、仏の慈悲のような日の光に照らされて、宝石はもとの輝きをあらわして、もう目の前にあるよ」
これは真言の考え方のようです。
森の妖精さんは、ぱっと枝に腰かけて言いました。
「あれこれ考えるのをやめて、じかに見ればいい。それだけよ」
これは、禅の考え方のようです。
フクロウさんは、うんうんとうなずきました。
そのとき、河の向こうから、ふたつの声が聞こえてきました。
ひとつは、渡し舟の船頭さんの声です。
「むずかしいことはいらないよ。ご縁の大きな舟に乗せてもらいなさい。向こう岸まで運んでくれるから」
これは念仏の考え方のようです。
もうひとつは、岸辺の鐘つきさんの声でした。
「ひとつ、鐘を打てばいい。打つたびに、川底の宝石が響きあって光るんだ」
これは題目の考え方のようです。
仏教には、仏となる可能性をすべての人の内に見て、そこへ至るさまざまな道が伝えられているのです。
川面が日の光にゆれて、仏の慈悲に照らされた人々の心のように、川底の宝石がきらりと輝きました。
フクロウさんは「ホウ」と小さく鳴いて、静かに目を閉じました。
