2017/02/09

心経玄談 6

まさに、肝要の心経です
そして、心経は最後の「呪」を説くための経典
というのが結論でいいと思います

せっかくなので、心経の内容の理解を深めるきっかけを探ってみたいと思います

最近の心経研究の到達点を示す好論文です
言っときますが、サンスクリット原本に基づいた、仏教文献学の論文ですので、読み進めるには、高度な専門知識が必要です
このようなもんなんだ、ということで参考にしてください

kindleで265円です
サンスクリット語からの知見で、伝統的な解釈を批判しています



一口に言って、経典解釈というのは、その気になれば、いくらでも拡大解釈できてしまうもので、たとえば弘法大師の般若心経秘鍵では

羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
(ぎゃーてい、ぎゃーてい、はらぎゃーてい、はらそーぎゃーてい、ぼーじそわか)

この呪を声聞、縁覚、大乗、真言と、それらを統合した成果としてとらえ


羯諦(声聞行果) 羯諦(縁覚行果) 波羅羯諦(大乗最勝行果) 波羅僧羯諦(真言曼荼羅具足円輪行果) 菩提薩婆訶(諸乗究竟菩提證入) 

に、それぞれ配当します
これを、いいとか、悪いとか言ってもしょうがないので、これが弘法大師の境地ということです
瞑想の階梯とも言えるし、心経が全ての修行を網羅しているとも言えます
ただこれ、弘法大師の解釈ということで真言宗の人は、すんなり受け入れても、他宗派の人は、参考程度にしか考えてないし、つまり、主流の解釈とはみなされてません

日本仏教の場合、心経を唱えないのは、真宗ですかね
専修念仏ですから
日連系も唱えませんね
真宗と日蓮系は、鎌倉時代に成立した宗派で、仏教信仰に時代的な特徴があって、いわば、時代背景に応じた「選択と集中」をしています
当然、これを、いいとか、悪いとか言ってもしょうがないのです

まあ、でも、玄奘がインドに行った時の空気感や、天平時代の仏教空間を思うと、心経は仏教世界のとして扱われていたと思われます

現代を生きる我々は、今を生きるために、自分の責任で仏教に向き合うしかありません
仏教の歴史に誠実に向き合う限り、仏教の要として心経を理解することを、個人的には、お勧めします


心経的に言えば
どのような事実であれ、解釈しなければ、理解されないわけで

一つの事実であっても、様々な解釈が成り立つわけです
これが
自分なりの解釈が、事実から極端な乖離をしないよう、常に自戒しなければなりません
それが、仏教的な生き方の本質に繋がっている、ということになります




2017/02/08

心経玄談 5

長保寺にある隅寺心経の経題は
「般若心経」ではなくて「心経」です


これは、「般若心経」の「般若」を省略したのではありません
最新の研究では、「心」は「要点」の意味で、いわゆる心情とか心理とかの「人間の心」を意味しているのではないことが分かっています

それで、心経の言うところの、要点とは、最後の呪ということになります
心経が16行あるうちの、15行は前ふりで、呪の説明ですね

ですから、心経の意味を深く掘り下げて論じるよりは、さっさと呪を唱えたほうが経典の趣旨に沿っていることになります
まあ、ですけれど、これは玄談なので、過去に書いたことと重複する部分もありますが、お話を進めさせていただきます

もともと、心経の信仰は、天平18年から(746)奈良の隅寺(海龍王寺)で、毎日、聖武天皇のために一巻、光明皇后のために一巻、合わせて二巻ずつ約10年間、おそらく総数で7000巻ほどを写経したのが始まりです
そのうちの60巻ほどが現存し、長保寺にも一巻あるわけです
年代的に言って、この大写経事業をすることになったのは、行基の存在があったからです
行基は、天平17年に日本最初の大僧正になって、写経が始まったのが天平18年です
行基が、数ある仏教経典のなかで、もっとも重視していたのが心経です


心経は、玄奘によってインドから中国にもたらされました
中国式の翻訳事業は、訳し終わったら、原典のサンスクリット経典を廃棄処分してしまうのです

玄奘法師画像 紙版画

こうして見ると立派です
10年以上前に、中国の西安の大雁塔(玄奘が設計にもかかわった。玄奘は塔のある慈恩寺で亡くなるまで経典の翻訳に従事した)の中にある売店で、土産物として売られているのを買って帰って表装しました
大雁塔で売られている物は、裏に大雁塔の角判が押してあります
外の売店でも、売っていましたが、それは判無し

東京国立博物館にあるものが原画であろうと思います(つまり、これは土産用のパクリです。背負っている経巻の表現が、ヒョウ柄のようになっていて雑なのは、ご愛敬です)
重要文化財 玄奘三蔵像(こちら本物)
右手に持っている、払子(ほっす)は創作ですね(原画にはなし)

たしか、十元ほどの値段だったと思います
まあ、150円ですか
当時は、中国バブルの前で、のどかでした

玄奘は西遊記の三蔵法師のモデルになったので有名で、さまざまな伝説が残されています
神秘的な話も多くて、残された話がどこまで本当かよくわからないのです
インドに行く途中、菩薩から心経の呪を授かった、というもそれですが、道中の安全のため呪を唱え続け、そのため心経は旅行安全の経典とも言われるようになったらしいです
伝説ではありますが、玄奘にとっても心経は特別な経典だったということですね






2017/02/06

心経玄談 4



長保寺蔵 隅寺心経


今時、語句の意味が知りたければ、ネットで検索すれば、およそのことがわかります
それで、ここでは、検索しても知ることのできない、もっと重要なことを書きたいと思っています



般若心経の最後の部分では、呪を絶賛しています

「これは大神呪、大明呪、無上呪、無等等呪である
よく一切の苦を除き
真実にして不虚なり」

羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
(ぎゃーてい、ぎゃーてい、はらぎゃーてい、はらそーぎゃーてい、ぼーじそわか)
(隅寺心経の文字は、現在使われていない文字が含まれています)


さて
呪と真言は、決定的に別物です
なんのこっちゃ、です

一般的に言って、真言は、たとえば、お地蔵さんがオンカカビサンマエイソワカ、とか、大日如来がアビラウンケンなどは、大日如来が色究竟天(しきくきょうてん)で説いたものを、竜樹(インドのお坊さん)が感得して書き記したものです
ですから、お釈迦様が説いた「仏教」ではなくて「密教」です

般若心経の呪は、お釈迦様が霊鷲山で説いたものです
(弘法大師の著作である般若心経秘鍵に、弘法大師が前世に霊鷲山でお釈迦様から直接聞いたと書かれています
現在の仏教文献学のレベルで検証しても、霊鷲山で説かれたことを否定する材料は出てきていません)

真言ーーーーーー>大日如来が説いた
般若心経の呪ーー>お釈迦様が説いた

これが、決定的違い、ということですね
まあ、大日如来が説いたものを竜樹が感得した話(真言)と、弘法大師が前世に霊鷲山でお釈迦様から直接聞いた話(呪)ということで、いい勝負といったらあれですが、仏教の最も神秘的な部分ではあります


般若心経の場合、呪だけ取り出して、そこだけ唱えるということはあまりやられていません
頭から、般若心経全部読んで、一巻読誦ということです

ですが、たとえばチベット仏教では、呪部分だけを、これは頭にオンをつけて
おん、ぎゃーてい、ぎゃーてい、はらぎゃーてい、はらそーぎゃーてい、ぼーじそわか
と繰り返し念誦する方法が実際あります

弘法大師の立場に立てば
「顕薬塵を払い、真言蔵を開く」
で、「呪」以外は薬の能書きで、功徳のある部分の呪だけ念誦するのもありかなと思います
(現在、高野山では理趣経、観音経、般若心経は常用経典として用いてますから、すべての漢文経典が、ただの能書きということではないようです)

これ、天台密教からすると、漢訳経典の漢文の部分も、不可思議な加持力があることが認められているわけで、経巻全体を読誦するのもありです
(天台では、法華経、阿弥陀経、般若心経は密教に分類されてます)

伝説では、三蔵法師玄奘が中国からインドに旅に出たとき、般若心経の呪の部分だけを菩薩から感得したとも言われていて、呪だけ念誦するのは、仏教の神秘的世界観からすれば、普通のことと言っていいと思いますけどね



2017/02/05

心経玄談 3

別に、あなたを説得しようというのじゃありませんが
武田邦彦先生のお考えは、しごく真っ当だと思いますね

今は、「そんなものは無い」と断定しても、千年後にはどういう理解になっているかわかりませんよ


さて、般若心経の話ですが


照見五蘊皆空ーーー>度一切苦厄
五蘊は皆、空であると照らし見てーーー>一切の苦厄を度す

度すというのは、仏が人々を救うことで
苦厄は、苦が苦痛とか悩みとか、自分自身の問題で
厄は、災難とか事故とか、ふりかかってくる問題の総称です
つまり、一切の苦厄を度す、とは、全ての問題を解決した、という状態のことで、笑いの止まらない、最高の幸せということです

五蘊が結構難しくて、般若心経の中にも書かれている色受想行識のことですが
ざっと言って
色(眼耳鼻舌身の感覚器官)が受(受け取ったもの)が想(想いとなって)行(連綿と継続して)識(意識となる)、その一連の作用が、五蘊です
目の前にモニターがありますが、ぼんやり見ていても(色)、なにが書かれているかわからないわけで
字を読んで(受)、言葉を理解して(想)、何行か読み続けて(行)、なにが言いたいのかわかってくる(識)と、まあ、普通に意識しないでもやっていることですが、言われてみれば、そういう仕組みです

五蘊が空だと照見すれば、笑いの止まらない、最高の幸せになれる

縮めて言うと、そうなります

例によって図にすると
となるわけですが

照見というのが気になるところですが、般若心経のすぐ上に、「五蘊が空だと照見する」ためには
行深般若波羅蜜多時、で
深く般若波羅蜜多を行った時、と明確に書かれています
般若波羅蜜多は、サンスクリット語の音写で、「智慧の方便」という意味です(これはこれで、難しい)

「深く般若波羅蜜多を行」えばーーー>「五蘊が空だと照見」して「一切の苦厄を度す」ことができる

理屈の組み立てはそれでいいとして、実際に実践するには「深く般若波羅蜜多(智慧の方便)を行」うことが大前提です
いちいちの言葉の意味は、結構難しくて、逐語的にきちんと理解しようとすれば、仏教大学に入り直したほうがいいんじゃないかと思いますが、大事なのは「深く般若波羅蜜多(智慧の方便)を行う方法」です

般若心経に限って言えば、写経を思いつきますが、写経は般若心経そのものには説かれていません
で、素直に般若心経を読むと、最後の部分の
羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶
(ぎゃーてい、ぎゃーてい、はらぎゃーてい、はらそーぎゃーてい、ぼーじそわか)
を呪文として読誦する、という方法になります

ここでは、千巻心経について書いていますが、天台宗布教手帳(平成3年版p.155)にも記載されていて、あまり知られていないかもしれませんが、特殊というほどのものでもないです 
般若心経の祈祷法
般若心経は、空について説かれています 
哲学的な空についての説明もありますが、実際は、哲学が知りたくて般若心経を読む人はほとんどいないでしょう 
読誦して功徳がある、霊験がある、ということを目的に唱えられています 
なんにもなければ、とっくに廃れてます
その霊験の引き金が呪です 
空ということを言えば、たとえば、地球の裏側の人たちから見れば、我々の存在は空の中です見る、聞こえる以前の世界の総称が空ですから、漠然と、広すぎる概念です
で、その空には整然とした秩序があり、ルールに従えば、空の中から実際的な力を取り出せる、というのが密教です 
主たる方法が、呪です 
般若心経によれば、呪には2種類あり、それは「精神集中」と「呪文」です 
それで、般若心経を読誦すれば、「精神集中」と「呪文」により、霊験がある、と
呪が仏によって定義され示されたから、間違いなく空の中から約束された力を取り出すことができます 
それで、もう2500年にわたって読誦され続けているということですね














2017/02/04

那智山

2月3日にに節分の手伝いに行きました 写真は、朝5時からの勤行のあと、朝食をすませた、日の出直後のものです
まだ、人けがありませんが、これから夕方まで休まずご祈祷を続けます

 




2017/02/02

心経玄談 2

般若心経の図解に、未那識、阿頼耶識、如来蔵を加えると

こんな感じになります

もとより、大雑把な図解なので、全てを精細に説明しているわけではありません
そもそも、般若心経には未那識、阿頼耶識、如来蔵は説かれていませんから

眼ーー>色ーー>眼界
耳ーー>声ーー>声界
鼻ーー>香ーー>香界
舌ーー>味ーー>味界
身ーー>触ーー>触界
意ーー>法ーー>意識界

と、それぞれ対応しています
死んでしまったら眼耳鼻舌身が失われるのは、それでいのですが、意識がどうなるか
意識が脳に依存しているということならば、結論が早いのですが、最近は、お医者さんが臨死体験記を発表したりして、かんたんに断定できなくなってきています

これはハーバード・メディカル・スクールにいらっしゃったお医者さんがお書きになった本

これは、東大のお医者さんが書かれた本

これは、死亡体験の本

僕自身は、臨死体験をしてNHKの取材も受けたお方を知っています

さて、一番上の図に戻りますが
水色の線で囲った、未那識がないと、空は全く認識されなくなってしまいます
そして認識しているということは、阿頼耶識が蓄えられていっているということになります
ですから
未那意識、阿頼耶識がなければ空を世界として認識できません
認識されないと、世界が消滅してしまいます 
誰かが亡くなったとしても、その人の遺産が蒸発して消えるなどということは無いのです
空は不生不滅ですから、輪廻が終わることは無いと

まあ、仏教では2500年前から、輪廻があると言ってるわけですが、「だから、幸せです」とは言ってません
仏教は、死んだらどうなるか心配するより、「よりよく生きるとはどういうことか」を心配しているのです

で、日本の大乗仏教がお勧めしているのが
慈悲」ということなんですねぇ












2017/02/01

心経玄談

般若心経には、未那意識、阿頼耶識、如来蔵は書かれてません
前五識が空となると、阿頼耶識にも空が溜め込まれることになる 未那意識、阿頼耶識が輪廻の主体と考えると、阿頼耶識まで空であるのが菩薩ということになる 最後の呪は呼格だから、呼びかけで、阿頼耶識まで空である菩薩の加持を得ることができるのです



長保寺蔵 隅寺心経(奈良時代)


空は、不生不滅、不垢不浄、不増不減 あるいは、不一不異、不同不断、不生不滅、不去不来とされてますが 遠近、強弱、大小は否定していません 波動と近似した概念と考えてもいいでしょう


人は、不生不滅、不垢不浄、不増不減、不一不異、不同不断、不去不来の空から、瑣末な個人空間を切り取って一喜一憂しています
未那意識、阿頼耶識がなければ空を世界として認識できません
認識されないと、世界が消滅してしまいます
誰かが亡くなったとしても、その人の遺産が蒸発して消えるなどということは無いのです
肉体が消滅しても未那意識、阿頼耶識は決してなくならないので、ホトケとなるまで輪廻は続きます



お堂の前で拝む時のコツ まとめ

  お堂の前で拝むときのコツ まとめ  AI音声 インド サールナート博物館 初転法輪の釈尊 お堂の前で拝む時のコツ 1 {微笑む}  大事なコツです 2 本尊様の名前を呼ぶ 3 息を吸う あなたを守る力が体に入る  と思う 4 息を吐く その力を分けてあげる  と思う それを繰...