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2016/04/10

仏教の歴史 本質的に共通する部分


仏滅後100年頃バイシャーリで行われた第二結集で、仏弟子は上座部と大衆部に分裂します
伝統を墨守するのが上座部、臨機応変に本質を求めるのが大衆部です

上座部はほぼ原型のまま、南伝してタイやミャンマー、スリランカなどに伝わり
大衆部はインドで密教化しつつ、大乗仏教として中国やチベットに伝わり、日本はこの流れに属します

上座仏教の修行の実践方法は「清浄道論」に、まとめられています
実に克明に解説が書かれています
瞑想方法も各種解説されていますが、主要な方法は、シャマタ(止)ビバシャナ(観)と言い、つまり、止観です

パーリ語から口語訳された500ページくらいの本が三冊です
上座仏教の修行法が説きつくされた、と言っていいでしょうね


一方の大乗仏教では、膨大なものがありそうですが、修行について体系形的にまとめられた本は天台大師が書いた「摩訶止観」とその要点をまとめた「天台小止観」しかありません
あとは、その2冊の止観の解説書があるだけです
仏教の修行を止観という概念で統合しています


「摩訶止観」は文庫本にもなっていて、400ページくらいのが2冊です
今、この本は絶版してしまっているようです
漢文の書き下しですが、細かい字で、けっこう大部です
「摩訶止観」以上の止観の体系的解説書は、結局現れませんでした

「清浄道論」と「摩訶止観」が、仏教の修行法の解説本の双璧です
止観が、上座部・大衆部の修行法の共通概念であることがわかります


これを、きちんと理解しなければ仏教の修行ができないということだと、坊さんは皆、大学院で仏教学を専攻しなければならなくなりますね(^^;;

で、実際は
僕は高野山で僧侶専門の修行道場の監督を1年やりましたし、比叡山で一から修行しなおしましたけれど、部分的な引用などはあったかもしれませんが、通して読んだりはしません

現在は、こういう古典的論書を踏まえた、もっと洗練された方法が、各宗派で研究され実施されています

主要な修行法は

天台系 経典読誦と密教
真言系 密教
浄土系 念仏
禅宗系 坐禅
法華系 題目と経典読誦

まちまちで統一感がありませんが
密教を印と真言と観念に分解すると

身  印
口  真言 経典読誦 念仏 題目
意  観念 坐禅

と、おおまかに、身口意の三つに分類できます

身口意の全ての要素を含んでいるのが密教です
密教は、日本では平安時代からある古い宗派になりますが、仏教史の流れからすればインドで仏滅1000年後位に成立した、もっとも新しい宗派です
ですから、修行法は、古くからある方法を統合した、洗練された方法に進化しているとも言えます
また、逆に、各宗派は、一つだけを深く追求しているとも言えます

密教では止観を踏まえて、加持という概念が成立しました



いろいろ書きましたが
つまり仏教では、自分が脳内に作り出す、生きているという素朴な感覚ではなく、その感覚を感じる前の世界を求めている、ということなのです


なぜなら、自分という存在が、執着、妄想、間違い、思い込み、など様々な歪みを作り出しているからです

これを学習と経験から学ぶ、というのが世間一般の常識なのですが、その学習すべき対象も、果分不可説で、あまり当てにはならないのです

でまあ、学習ももちろん大事ですが、瞑想は必要だということになるのです













2013/01/07

仏教の瞑想

仏滅後100年頃バイシャーリで行われた第二結集で、仏弟子は上座部と大衆部に分裂します
伝統を墨守するのが上座部、臨機応変に本質を求めるのが大衆部です

上座部はほぼ原型のまま、南伝してタイやミャンマー、スリランカなどに伝わり
大衆部はインドで密教化しつつ、大乗仏教として中国やチベットに伝わり、日本はこの流れに属します

上座仏教の修行の実践方法は「清浄道論」に、まとめられています
実に克明に解説が書かれています
瞑想方法も各種解説されていますが、主要な方法は、シャマタ(止)ビバシャナ(観)と言い、つまり、止観です


パーリ語から口語訳された500ページくらいの本が三冊です
上座仏教の修行法が説きつくされた、と言っていいでしょうね


一方の大乗仏教では、膨大なものがありそうですが、修行について体系形的にまとめられた本は天台大師が書いた「摩訶止観」とその要点をまとめた「天台小止観」しかありません
あとは、その2冊の止観の解説書があるだけです
仏教の修行を止観という概念で統合しています



「摩訶止観」は文庫本にもなっていて、400ページくらいのが2冊です
今、この本は絶版してしまっているようです
漢文の書き下しですが、細かい字で、けっこう大部です
「摩訶止観」以上の止観の体系的解説書は、結局現れませんでした

「清浄道論」と「摩訶止観」が、仏教の修行法の解説本の双璧です
止観が、上座部・大衆部の修行法の共通概念であることがわかります


これを、きちんと理解しなければ仏教の修行ができないということだと、坊さんは皆、大学院で仏教学を専攻しなければならなくなりますね(^^;;

で、実際は
僕は高野山で僧侶専門の修行道場の監督を1年やりましたし、比叡山で一から修行しなおしましたけれど、部分的な引用などはあったかもしれませんが、通して読んだりはしません

現在は、こういう古典的論書を踏まえた、もっと洗練された方法が、各宗派で研究され実施されています

主要な修行法は

天台系 経典読誦と密教
真言系 密教
浄土系 念仏
禅宗系 坐禅
法華系 題目と経典読誦

まちまちで統一感がありませんが
密教を印と真言と観念に分解すると

身  印
口  真言 経典読誦 念仏 題目
意  観念 坐禅

と、おおまかに、身口意の三つに分類できます

身口意の全ての要素を含んでいるのが密教です
密教は、日本では平安時代からある古い宗派になりますが、仏教史の流れからすればインドで仏滅1000年後位に成立した、もっとも新しい宗派です
ですから、修行法は、古くからある方法を統合した、洗練された方法に進化しているとも言えます
また、逆に、各宗派は、一つだけを深く追求しているとも言えます

密教では止観を踏まえて、加持という概念が成立しました



いろいろ書きましたが
つまり仏教では、自分が脳内に作り出す、生きているという素朴な感覚ではなく、その感覚を感じる前の世界を求めている、ということなのです



なぜなら、自分という存在が、執着、妄想、間違い、思い込み、など様々な歪みを作り出しているからです


これを学習と経験から学ぶ、というのが世間一般の常識なのですが、その学習すべき対象も、果分不可説で、あまり当てにはならないのです

でまあ、学習ももちろん大事ですが、瞑想は必要だということになるのです








2023/01/10

仏教修行の基本

 仏滅後100年頃、仏教は上座部(伝統重視)と大衆部(臨機応変)に分裂します


上座部の修行法をまとめたのが、清浄道論です

内容は、シャマタ(止)、ビバシャナ(観)です



大衆部の修行法をまとめたのが、摩訶止観です

内容は、当然、止観です



仏教の歴史を通じて、他にはこの解説書がある位です


https://chohoji.blogspot.com/search?q=摩訶止観


上座部のシャマタ(止)ビバシャナ(観)と、大衆部の止観はどこが違うのかですが

上座部の経典に、法華、般若などを追加したのが大衆部ですから、上座部と大衆部は骨子は同じと言っていいと思います


上位互換と言ったら怒られます

上座部は、いわば、原理主義

大衆部は、いわば、拡大解釈派です


日時計を見て、午前中に食事を終わらせる決まりだったのを

上座部になった人達は、きちんと守り

大衆部になった人達は、日時計指一本分は誤差として認めて欲しいとしたのを否定されて、分裂したということです


だから、上座部と大衆部の本質的な違いは、指一本分です


摩訶止観を講義したのは天台大師です


天台大師画像 長保寺蔵 桃山時代



天台大師は大蔵経全てを、説法年代別、説法内容別に整理して、修行法も体系化して、今でも仏教学の基本です


気持ちを静めて(止)

正しく思う(観)


簡単だとは言いませんが

仏教の修行は、ただこれだけです


産まれながらに持ち合わせている「気持ち」を、何故に落ち着かせなければ(止観の止)ならないのか?

生命進化の歴史を経てきた我々は、自分にとって安全で利益のある物事に、特に関心をもちます

自分の生存に関わるからです



それを、自己中心的に解釈すると、歪みが生じるのです


根深い問題です

自分自身を守るための生命反応が、利己主義の原因になっています


「万物はentanglement」なのですが、時間空間、生死、苦楽も作り出しています


しかし、我々は、そうやって生きているのです


では、我々は、歪んだquantumを量産するために生きているのか?

この図から考えるならば

entanglement だけでは世界は存在できません

あなたが、矢印の「観測」をしない限りquantumは生じないのです(止観の観)

この世界には、あなたの「より善い思い」が必要なのではないですか


仏教で、善いこと、と言ったら十善戒が思い浮かぶわけですが、これもまだ複雑なんで、最近はこっちが主流かな


七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ) 過去七仏共通の戒


諸の悪はなすなかれ(諸悪莫作)しょあくまくさく

衆の善を奉行せよ(衆善奉行)しゅぜんぶぎょう

自ら其の意を浄くせよ(自浄其意)じじょうごい

これ諸仏の教なり(是諸仏教)ぜしょぶっきょう


諸々の悪はなすなかれ

これは素朴に、最低限、犯罪行為をするなってことでしょう


衆の善を奉行せよ

人々にとって善きことを行え(奉行というのは命じられて行うことですから、仏が我々に命じています)


自らその意を浄くせよ

自分で自発的に、心を浄らかにせよ


悪と善と浄は、都度自分で考える、ということでしょう


「慈悲」「悪」「善」「意を浄く」など、具体的にはなにか、とおっしゃりたい気持ちはわかります

まさに、日々の暮らしで、突きつけられ、結論を迫られ、迷っても、そこをなんとかするのが仏教の修行なのでしょう

ただ、あなたは、独りぼっちではありません、仏が念じてくれています


「お釈迦様ならどうするか、考えて」


先達の言葉です

当然、わかるわけがない


ただ、そこを、考え続けることが大事です

進む道は、そこしかないんだから


2009/06/04

止観

天台大師像 絹本著色 桃山(16世紀) 長保寺蔵


「
それ涅槃の真法は 入るにすなわ多途あれども、 その急要を論ずれば 止と観との二法を出ず
しかるゆえんは、止すなわち結を伏するの初門、観はまた惑を断ずるの正要なり
止はすなわち心識を愛養するの善資、観はすなわち神解を策発するの妙術なり
止はこれ禅定の勝因、観はこれ智慧の由籍なり

略明開蒙初学坐禅止観要門(天台小止観) 序
」

止観とは、つまり坐禅のことです

坐禅のやりかたを書いた本は、それこそ膨大なものがありそうですが、実は、天台大師の摩訶止観とその要点をまとめた、この小止観しかありません
摩訶というのは、サンスクリット語でmahaで大きなという意味です

ちなみに、マハラジャはmaha(大きな)raja(王様)です

大小止観で、坐禅を説明し尽くして、あとは、この大小止観の解説本しかありません
それだけ、天台大師が偉かったのと、やはり坐禅そのもがシンプルだからでしょう

きちんと学問的に言うと、手間がかかるので、はしょりますが(^^;)
はぁー、またややこしい話です 
 

もともと仏教の修行の基本は瞑想で、それをシャマタ(止)ビバシャナ(観)と言い、つまり、止観です
仏教独特のものです
タイ、ミャンマーなどでは、これしかやりません

しかしながらインドには、仏教より遥か昔から瞑想の伝統があり、それをyogaと言います
ヨガですね
これはサスクリット語で、「繋ぐ つなぐ」という意味です
英語のyokeの語源らしいです

古代インド伝統のyogaだけで問題が片付くならば、仏教の止観という概念を持ち出す必要ないはずです

まあ、お釈迦様が悟りを開く必要もありません

yogaは、人間以上の超越的存在(神様ですね)と、人間が「繋がる」という意味なのですが、

超越的存在<---yoga(つなぐ)--->人間

この超越的存在の、良し悪しを決めるのは誰でしょうか?
ここのところが、大問題なのです

神様は偉い、でかまいませんが、なにがどうして偉いのか
誰が決めるのでしょうか

それは、「自分で決める」というのが仏教です

価値観の尺度が人間に備わっていなければ、判断はつきません
つまり、「それが、仏性だ」ということになります
仏性が人間にあるから、

止-----あれこれ考えるのを止め
観-----心の底からわき起こる、正直な気持ちを観れば
なにをするべきかわかる、ということになるのです


人間には神様の価値を見分ける力がある、というのが仏教の基本的な考え方です

しかし、yogaは、インドの長い歴史のなかで、仏教に取り入れられていきます

お釈迦様が入滅してから、神格化が始まり、釈迦イコール神、になっていき、その神との合一が求められるようになります

神格化は、仏舎利信仰から始まり、その仏舎利を祀る仏塔、そして神格そのものへと深化していきます
最終的に、大日如来を中心とした曼荼羅に集大成されます
ここまでのプロセスに約1000年かかっています

日本に伝わった密教は、歴史的には、神格化の途中のものです
哲学的には最も純粋なものだと思います

インドやチベットでは、肉体的なチャクラとか、それまで外道扱いしてきた神々を取り入れて、オカルト化を進めていきます
チベットでは、ツォンカパが、あまりに呪術的になった密教を仏教として再生しようとします
そこまで、魔法化してしまったのです
インドでは、イスラムによる徹底的な破壊を経て、ヒンドゥーの中に埋没してしまいます
お釈迦様を神様にしてしまいましたから、ヒンドゥーでは、ビシュヌの9番目の化身にされてしまっています

 

 

さて

たとえ、仏教の神様や菩薩様であっても、自分の都合だけで拝んでいれば、それはオカルトになりかけている、ということですね

禅宗は坐禅しかやりませんが、正気を維持するには、一番てっとり早い方法かもしれません

今の天台宗では密教しかやりません
非常に洗練された方法で拝みます
しかしながら、基本を忘れたらいけませんよ、ということです




2014/09/05

As Mona Lisa

Please smiling(As Mona Lisa)

Breathe quietly
Imagine "OK"
Sigh gently
Imagine "Fine"

And end with thanks


かすかに微笑む(モナリザのように)



息を吸うとき 慈悲(love and wisedom)が体にはいる ありったけのイメージで思う



息を吐くとき 感謝しながら吐く


あなたの中に元々ある、すばらしい心が、仏の慈悲に洗われて、輝く

自分が自分に目覚める それを「悟り」という

リラックスして

1分でも3分でも5分でも、15,30でもいいからやる

どこでもできる

疲れたらやめる がんばる必要はない

いつでもできる

Easy and Simple







僕なりの、瞑想法の詳しい解説は

「QuantumSenseと仏教」に書いているのですが、「微笑む」のが大事な理由は書いてないなぁ


いろんな瞑想法がありますが、「先ず微笑む」というのは、今まで僕は聞いたことがありません

仏教で言えば「摩訶止観」とか「清浄道論」とかにも「微笑む」ことは書かれていません
(「摩訶止観」は大乗仏教唯一の座禅の方法の解説です。「清浄道論」は、南伝仏教最大の修行法の解説です)


僕がBlogで「先ず微笑む」ことを書き始めたのは、「Image Training Meditation」からで、これが2004年ですから、かれこれもう10年以上前から言っています
最初のうちは、素朴で整理されていませんね

「癒される瞑想」は2006年からです
徐々に加筆して現在に至っています


僕が、「微笑む」ことが大事だと思い始めたのは、お世話になった悉地成就者の影響が一番大きいです
この方はもう亡くなりましたが、五神通の有る方で、僕は、お経に書かれていることは全部本当なんだと、目の当たりにしました
この方は本当に笑顔ばかりでした
語り尽くせないエピソードがありますが、全て常識はずれの話ばかりですから、省略しますけど

ま、それで、自分の経験とか、いろいろ考え合わせてみると、微笑まなきゃだめじゃん、と確信するに至ったわけです

ブッダガヤ 金剛宝座 降魔印の釈尊
(現在、金剛法座は二重に柵で囲われて、近づいて写真を撮ることはできません)



微笑むこと
自分を信じること
「ホトケになる」と決意すること
ホトケがわかりにくければ、真実の自分でもいいですが
この3つが大事かなぁ
その他のことは、些細なことですよ


こちらどうぞ
Facebookページ


2012/06/03

章安大師画像

章安大師画像 部分 江戸時代 長保寺蔵

561~632
灌頂、後に号して章安大師
幼時父を喪い、7才で出家 23才で天台大師の門下となる
天台三大部(法華玄義・法華文句・摩訶止観)、五小部(観経妙宗鈔・金光明経文句記・同玄義拾遺記・別行観音玄義記・別行観音義疏)などを筆録




流転三界中 恩愛不能断
棄恩入無為 真実報恩者

(欲界、色界、無色界の)三界の中を流転し、恩愛をよく断つことあたわず
恩愛を棄て無為に入るは、真実に恩に報いる者なり






諸法従本来 常自寂滅相
佛子行道已 来世得作佛

諸法は 本よりこのかた、常に自ら寂滅の相なり
佛子は道を行じおわって、来世に仏となることを得ん


2026/09/24

円頓章の解説図

円頓章の解説ページhttp://www.chohoji.or.jp/houwa/


この図は、天台大師の『摩訶止観』の神髄をまとめた『円頓章(えんどんしょう)』の冒頭部分を分かりやすく視覚化したものです。 

特に冒頭の重要な一節、「円頓とは初めより実相を縁ず。境に造るに即ち中にして、真実ならざること無し(円頓者 初縁実相 造境即中 無不真実)」のメカニズムを解説しています。 

 各要素の解説

1. 左側の雲:造境(ぞうきょう)

左側の雲(人間の思考や脳のフィルター)の中に現れている虹色の円で、「造境(ぞうきょう)」と書かれています。 
  • 意味: 私たちが目や耳などの感覚器官(五感)を通して、脳(意識)の中で作り出している主観的な世界のことです。
  • 私たちは普段、ありのままの世界ではなく、自分自身の「認識のフィルター」を通して作られたこの「造境」を見て生きています。 


2. 右側の円:実相(じっそう)

矢印の先にある右側の虹色の円には、「実相(じっそう)」と書かれています。 
  • 意味: 宇宙や世界のありのままの真実の姿、つまり「仏界(仏の悟りの世界)」そのものです。 

「実相(じっそう)」、いわゆる「諸法実相(しょほうじっそう)」について、さらに踏み込んで解説します。 
「実相」とは、一言で言えば「この世のすべての存在(諸法)の、ありのままの真実の姿」のことです。仏教が目指す究極のリアリティであり、「仏の智慧の目」で見た世界そのものを指します。 

「あるがまま」を肯定する

私たちは普段、自分の都合や欲望、固定観念(図でいう「造境」)という色メガネをかけて世界を見ています。 

    • 「あの人は嫌いだ」「この出来事は最悪だ」と、感覚器官のフィルターを通して脳内に映った「造境」にしがみついて一喜一憂しています。

しかし「実相」の世界では、春が来れば花が咲き、秋になれば葉が紅葉するように、すべてのものが「ただ、そうあるようにある」と捉えます。

優れたものも、一見ダメに見えるものも、この宇宙を構成する上で一つとして無駄なものはなく、それぞれが本来の命を輝かせて存在しているという、絶対的な肯定の世界が「実相」です。 

 「空・仮・中」が一つに調和している姿(三諦円融)

実相の具体的な中身を「三諦円融(さんたいえんゆう)」という3つの視点が一つに溶け合った状態として説明します。 

    • 空(くう): すべての物事には固定された実体がなく、変化し続ける(執着すべきではない)。
    • 仮(け): 実体はなくても、さまざまな縁(原因と条件)によって、今ここに「仮の姿」として確かに存在している。
    • 中(ちゅう): 「何もない(空)」にも「ずっとある(仮)」にも偏らない、その両方を包み込んだありのままの真実(中道)。 

実相とは、「実体はないけれど(空)、今ここに生かされて存在しており(仮)、その姿そのものが宇宙の真理(中)である」ということです。  

だからこそ「初めから実相を縁ずる」

普通の修行は、「汚れた現実」からスタートして、階段を一段ずつ登るように「清らかな理想(実相)」を目指します。(始覚)

しかし円頓の教えでは、「私たちが今生きている、この煩悩だらけの現実(諸法)の中に、最初から実相(仏の世界)が収まっている」と考えます。 (本覚)

「いつか悟る」のではなく、「今、目の前にある現実がそのまま実相である」と見抜くこと(=諸法即実相)が重要です。 



3. 「造境即中(ぞうきょうそくちゅう)」

『円頓章』が教える「円頓(円満にすべてが、たちどころに備わっていること)」の修行・悟りとは、段階を踏んで実相に近づくことではありません。 
人間の意識が自己の殻(末那識)から離れ、真実の世界へと繋がると、「頭の中で作り出している世界(造境)」と「ありのままの真実(実相)」が完全に等しく重なり合います。
図の中で、左の雲の中にある虹の円(造境)と、右側の虹の円(実相)が同じ色・形で描かれているのはそれを示すためです。
自分の心が作り出す境界が、そのまま「中道(真実の世界)」に合致している状態を、円頓章では「造境即中 無不真実(境に造るに即ち中にして、真実ならざること無し)」と言います。 


4. 
円頓章のポイント
  • 「繋がる(繋縁法界 縁を法界に繋ぐ)」ことが核心
    感覚器官を通して脳内に映った「造境」にしがみつくのをやめ、「実相(法界)」と繋がれば、すべてが中道になる、という立場です。段階的な修行や善行の積み重ね(始覚)だけでは実相には届かず、繋がって初めて苦・集・滅・道の区別が消えます(本覚)。
    涅槃経の「如来常住」と「一切衆生悉有仏性」が本覚の根拠です。
  • 戒律との関係
    円頓戒は「あれをするなこれをするな」ではなく、法界と繋がれば自然に守られるもの、としています。涅槃経の「一切衆生悉有仏性」が、戒の根拠です。衆生は本来仏であるから、その本覚に即して戒を受ける、というのが円頓戒の論理です。
    戒は後から付ける規範ではなく、仏性の顕れとして頓に円満します。
円頓章の図は「今ここで、すでに完全な真実の世界にいる。固定観念(造境)を離れて真実(実相)と繋がれば、苦も修行も区別もいらなくなる」という天台の円頓の教えを、日常語と図解で示したものです。








2012/02/19

天台大師像

長保寺にある天台大師画像です
長保寺は天台宗ですから、開祖の天台大師の絵があって別段おかしくはありません

しかし、長保寺はもともと天台宗としてはじまりましたが、鎌倉時代には真言宗になり、今ある本堂(国宝)・多宝塔(国宝)・大門(国宝)・鎮守堂(重文)は真言宗の時代に建てられた建造物です
江戸時代に紀州徳川家の菩提寺になるにあたり、天台に復しました
正確にいつから真言になったかは、わかっていません

この絵が室町時代のものであるという和歌山県立博物館の鑑定を信頼するならば、どうも、真言宗の時代のものになってしまいます
あるいは、室町よりもっと古い、鎌倉初期かそれ以前の、長保寺が元々の天台宗だった時代の絵かもしれません

おなじような構図の絵が日本にもう一枚だけあるようですが、天台宗でもこの長保寺の画像が貴重で、NHKテキストの表紙になったり、天台宗典編纂所で紹介されたりしています

長保寺は、もともと一条天皇の勅願寺ですから、紀州徳川家の菩提寺になる以前からの、多数の仏像と仏画が残されているのです



天台大師像  一幅  

絹本著色 縦97.6 横52.4
桃山(16世紀)
天台大師智ギ(538~597)は『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』の天台三大部などを講述し、中国天台の実質的開祖として尊崇されている。
 天台大師の画像の多くは、禅鎮を乗せた頭巾を被り、禅定印を結んで瞑目する姿であるが、長保寺伝来のこの画像は、脇息を前にして左手を乗せ、右手に如意を執る、説法相の大師である。
 「寄進帳」に和歌浦雲蓋院第4代住職憲海(寛文12年まで在職)が修復を奉納したとあり、やはり長保寺が紀州徳川家の菩提寺となる以前から什物として釈迦堂に備えられていた画像である。



和歌山県立博物館「長保寺の仏画と経典」より

あなたは仏教を知っているか?2 脳内世界 パラレルワールド 時間と空間はない

  大河のほとりに、一本の大きな菩提樹が立っていました。夕方になると、川面から霧がゆっくりと立ちのぼり、葉のすき間から落ちた西日が、水の上で細かく揺れます。 その枝の高いところに、年老いたフクロウさんが住んでいました。そこへ、川辺の葦のあいだから、羽の透きとおった妖精さんがふわ...