2009/06/06

時間を超越した「意味」

胎蔵曼荼羅図 絹本著色 鎌食後期(十四世紀) 長保寺蔵


「越三時如來之日。加持故身語意平等句法門。

三時を越えたる如来の日。加持のゆえに身語意平等句の法門なり

大毘盧遮那成佛神變加持經 入眞言門住心品第一」
 
 

仏教で言う「空」は、感覚器官で感じる前の世界ですから、永遠にどのようなものか、わかることが出来ないことになります
それこそが真実で実体だとしても、感じる前の姿ですから、わかりようがありません

でも、実際に見えたり聞こえたりしてるわけですから、そこにあります

ですけれど、見えたり聞こえたりして感じているのは、結果としての脳内のイメージでしかありません

それで、真実にたどり着く方法論が必要になります


yoga
真実と人間をつなぐ マントラや祈り、瞑想、断食、苦行など、いわゆる修行と言われていること全ての原型があります

止観
感覚器官の制御(制感) 考えたり感じたりするのを休めば真実が沸き起こるという考え方です

加持
仏教ではyogaの影響を受けて、加持という方法論が出てきます
仏教でも瑜伽師地論とか金剛頂瑜伽など瑜伽(ゆが yogaですね)という言葉がそのまま使われることもありますが、日本で密教が集大成されると加持という言葉だけになってきます


弘法大師が明確に密教の方法論を定義します

「仏日の影、衆生の心水に現ずるをといい、行者の心水、よく仏日を感ずるをと名づく

即身成仏義」

もともと大日経にある概念です

三時を越えたる如来の日

この三時は、おやつの時間、じゃありません・・・
ここでは過去・現在・未来のことです

如来とは、「来るが如く」で、厳密には仏とか神とか言ったらそれはイメージにつけたレッテルなので、実体は感じる前の世界にあることを言おうとしてます

如来は、感じる前の世界の存在なので、時間は当然、ありません
ついでに書いときますが、数もありません、大きさも、形も、重さもありません、有るとか無いとかが無いんです
でも、存在してます
存在してる「意味」というか、実体を表にしたのが曼荼羅です
あの世がこんなかっこをしてる、ということじゃありません

感じる前の世界にある、時間を超越した「意味」を視覚化してみたら曼荼羅になったと(つまりこれもイメージですね)

身語意平等句の法門なり

如来の身語意を三密、衆生の身語意を三業とし、三密と三業が同じになれば、平等になったということです
やってることと考えてることが同じなら、同じになったと

句はメソッドという程度の意味で、方法とか手法とかいう意味ですね

「三密加持すれば速にあらわる 即身成仏義」

手に印を結び(身)
口に真言を唱え(語)
心に仏を思う(意)

これができれば、加持ですよ、と

手と口は、まねればすぐできます
心ですね、修業が必要なのは、ここがなかなか難しいからです

印と真言を習うだけでも大変です
けっこう難しいです
で、形骸化しやすいと

 

合掌礼拝を「身の一密」
念仏や経典読誦を「口の一密」
止観坐禅を「意の一密」

とか言ったりもします

 

空即是色--->加即是持

これが、なかなか理屈どおりに簡単でないと、ま、そういうことです


2009/06/05

無限ループ

天寿国曼陀羅繍帳 国宝 中宮寺蔵


「世間虚仮、唯仏是真 せけんこけ ゆいぶつぜしん」

我が大王(厩戸皇子、聖徳太子のこと)の所告(のたま)いけらく、『世間は虚仮にして、ただ仏のみ是れ真なり』と、其の法を玩味(あじわい)みるに、我が大王(厩戸皇子)は、応(まさ)に天寿国の中に生まれましつらんとぞ謂(おも)う。

天寿国曼陀羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅちょう)の銘文にあります
極楽浄土の様子を刺繍したものです

よく「コケにするな」、とか使いますが、これ全くの仏教用語です

天台学でいうですね


眼耳鼻舌身意の五感によって、つくられたイメージは仮のものであり、感じられる前の世界が真実です

世間虚仮とは、イメージによって作られた社会生活全般すべて、虚しく仮のものであるという認識ですね
厭世感でもありますが、仮のイメージにしがみつかず、真実を見つめるということにもなります

好き嫌い、損得、利害、すべて虚仮です
冨、名声、地位も虚仮です


イメージにしがみついているかぎり、虚仮からは抜け出すことができません
別に抜け出さなくてもいいですが、真実にはたどりつきません

 
「怨みをもって怨みに報ゆれば怨みやまず、徳をもって怨みに報ゆれば怨みは即ち尽きる」伝教大師

憎しみや怒りも、報復すれば、また新たな怨みを呼びます
まあ、気の利いた解決策がなくても、少なくとも、報復は報復を呼ぶことをわかっている必要があります
報復を止めなければ、憎しみの無限ループが続くのです
 
人は得てして、得意なことや好きなことで失敗するもんですが(酒、女など)、気持ちに任せて無反省に生活していれば、どうどうめぐりで、いつまでも愛憎から離れられません
 
これはもう、人間はイメージの中を生きるしかないのですから、しかたのないことなのですが、イメージに固執しなければ、真実を感じることはできるのです
 
仏教で出家するのは、世間を捨てて山にこもるということではなくて、本当の意味は、虚仮を虚仮としてわきわえて執着しない、ということです
執着から離れられないなら、出家も形だけのことです
 
愛は、ちょっと難しいんですが
仏教では執着のない愛を、慈悲として別扱いしてます
英語だと、慈悲のいい訳語は無いですね
 
執着のある愛は、失うと、憎しみに変わりますが
慈悲は、失うと、憐みですかね
 
執念がなければ生き残れないのが人生ですが、まあ、どうせ最後は死ぬんだし(あー、それ言っちゃお終いよ)あんまりこだわらないことです
 
死ぬことはあっても、それで自分が無くなることはありません
 
 
 
死んでも、感じる前の世界は無くならないのです
だって、有るとか無いとか関係ないですから
でも、生きていると、見えるし、聞こえるんです
 
パっと目をつぶっても、目の前のモニターは無くなりません
 
見えてるということは、イメージが脳内に形成されたということですが、これ、実体じゃないんです
イメージに過ぎないんです
実体は、目をつぶってもそこにあるんです
だから、感じなくても、実体はあります
  
死んで感じなくなっても、実体はあり続けるということです
 
自分がいるという実感も、イメージです
ですから、感じられる前の自分がいるわけで、それが実体です
で、その実体は死んで感じなくなっても、なくならないと
 
思いっきり、わかりにくいですが、こう考えないと説明のつかないことが、やはりあるんですよね 





2009/06/04

止観

天台大師像 絹本著色 桃山(16世紀) 長保寺蔵



それ涅槃の真法は 入るにすなわ多途あれども、 その急要を論ずれば との二法を出ず
しかるゆえんは、すなわち結を伏するの初門、はまた惑を断ずるの正要なり
はすなわち心識を愛養するの善資、はすなわち神解を策発するの妙術なり
はこれ禅定の勝因、はこれ智慧の由籍なり

略明開蒙初学坐禅止観要門(天台小止観) 序


止観とは、つまり坐禅のことです

坐禅のやりかたを書いた本は、それこそ膨大なものがありそうですが、実は、天台大師の摩訶止観とその要点をまとめた、この小止観しかありません
摩訶というのは、サンスクリット語でmahaで大きなという意味です

ちなみに、マハラジャはmaha(大きな)raja(王様)です

大小止観で、坐禅を説明し尽くして、あとは、この大小止観の解説本しかありません
それだけ、天台大師が偉かったのと、やはり坐禅そのもがシンプルだからでしょう

きちんと学問的に言うと、手間がかかるので、はしょりますが(^^;)
はぁー、またややこしい話です 
 

もともと仏教の修行の基本は瞑想で、それをシャマタ(止)ビバシャナ(観)と言い、つまり、止観です
仏教独特のものです
タイ、ミャンマーなどでは、これしかやりません

しかしながらインドには、仏教より遥か昔から瞑想の伝統があり、それをyogaと言います
ヨガですね
これはサスクリット語で、「繋ぐ つなぐ」という意味です
英語のyokeの語源らしいです

古代インド伝統のyogaだけで問題が片付くならば、仏教の止観という概念を持ち出す必要ないはずです

まあ、お釈迦様が悟りを開く必要もありません

yogaは、人間以上の超越的存在(神様ですね)と、人間が「繋がる」という意味なのですが、

超越的存在<---yoga(つなぐ)--->人間

この超越的存在の、良し悪しを決めるのは誰でしょうか
ここのところが、大問題なのです

神様は偉い、でかまいませんが、なにがどうして偉いのか
誰が決めるのでしょうか

それは、「自分で決める」というのが仏教です

価値観の尺度が人間に備わっていなければ、判断はつきません
つまり、「それが、仏性だ」ということになります
仏性が人間にあるから、

止-----あれこれ考えるのを止め
観-----心の底からわき起こる、正直な気持ちを観れば
なにをするべきかわかる、ということになるのです


人間には神様の価値を見分ける力がある、というのが仏教の基本的な考え方です

しかし、yogaは、インドの長い歴史のなかで、仏教に取り入れられていきます

お釈迦様が入滅してから、神格化が始まり、釈迦イコール神、になっていき、その神との合一が求められるようになります

神格化は、仏舎利信仰から始まり、その仏舎利を祀る仏塔、そして神格そのものへと深化していきます
最終的に、大日如来を中心とした曼荼羅に集大成されます
ここまでのプロセスに約1000年かかっています

日本に伝わった密教は、歴史的には、神格化の途中のものです
哲学的には最も純粋なものだと思います

インドやチベットでは、肉体的なチャクラとか、それまで外道扱いしてきた神々を取り入れて、オカルト化を進めていきます
チベットでは、ツォンカパが、あまりに呪術的になった密教を仏教として再生しようとします
そこまで、魔法化してしまったのです
インドでは、イスラムによる徹底的な破壊を経て、ヒンドゥーの中に埋没してしまいます
お釈迦様を神様にしてしまいましたから、ヒンドゥーでは、ビシュヌの9番目の化身にされてしまっています

 

 

さて

たとえ、仏教の神様や菩薩様であっても、自分の都合だけで拝んでいれば、それはオカルトになりかけている、ということですね

禅宗は坐禅しかやりませんが、正気を維持するには、一番てっとり早い方法かもしれません

今の天台宗では密教しかやりません
非常に洗練された方法で拝みます
しかしながら、基本を忘れたらいけませんよ、ということです




2009/06/03

天台と真言

伝教大師画像 紙本 昭和初期 長保寺蔵



弘法大師画像 絹本著色 室町前期(15世紀)長保寺蔵


僕は、高野山大学を卒業して、本山の修行道場の監督をつとめ、それから現在のお寺の宗旨の比叡山ですべて一から修行しました
真言と天台両方に深い御縁があります
どちらかというと、基礎からきちんと勉強した真言のほうが詳しいです
それでも天台で20年以上やっていますから、内容は理解しています


弘法大師(空海)と伝教大師(最澄)は、弟子の取り合いや、密教の評価の違いがあって、絶縁したのです

才能は空海のほうが上です
だた、歴史は、天台系から念仏、禅、法華と大乗仏教の天才を輩出しました


スパープレーヤー(空海)と優秀なコーチ(最澄)でしょうか


今、真言宗系の末寺は30000ヶ寺位はあるでしょうか
天台宗は3000ヶ寺ほどしかありませんが、比叡山を母とする宗旨は、つまり、真言以外の全てですね


ちなみに、僧侶の世界で、宗旨の席次は天台が上です
天台のほうが先に公認されたからです

世界遺産も比叡山が先でした
これは、高野山と熊野をいっしょにすることで、もめて遅れたからです



2009/06/02

一心三観


この図は、天台宗の宗紋です
三諦星(さんたいせい)と言います

宗紋は、家紋と同じく、戦国時代にはきっちりと成立したもので、敵味方の識別マークですね
間違えたら、えらいことになるので、厳格に決められています

背景になっているのは、十六菊紋です
御承知のとおり、十六菊は皇室の紋章です
天台宗は、そもそもは京都の皇室を守るための宗教として始まったからです
京都御所の東北の鬼門の比叡山で、勅許をいただいてお寺(延暦寺)を建立して本山としています
ですから、僕は、毎日、玉体安穏を祈っています
なにがあっても、最後まで、天台宗は皇室の味方です
別に僕は右翼じゃありません
右左などという言葉ができる前から、天台宗は皇室を守護しています

でもって、恐れ多くも、その上に、ちゃっかりと、三つの星が乗っています
これを、三諦星(さんたいせい)と言います


三諦は天台学の専門用語で、これこそが天台宗の中心教義です
それを図案化したのが三諦星です 


もうしわけないですが、ここから、また、かなり、わかりにくいです

天台宗による公式な三諦の説明です

諦とは苦集滅道の四諦や真俗二諦の諦と同義で真理を意味し
常識的に真実とされるものは実態のない空諦
実態はないが縁起によって存在する面を仮諦
両者を超えた真理を中諦と称し
相互に具し合うのが円融三諦という
これを観法によって体得するのを空仮中三観とし
漸次に観するのが次第三観
三観各々に他の二観を含め、三にして一、一にして三とするのが一心三観である

天台宗布教手帳


わかります?
坊さんは、こんなことを書いた手帳を本山からもらって、法話をするのよ

はぁー、かんべんして欲しい


例によって図示すると、こんな具合になります



般若心経などで言う、空と色の関係と原則一緒です
まあ、あたりまえです、仏教ですから



ただ、大事なのは、空と仮を一緒にして、それを中として、その空仮中を一心としてまとめたことです

これは、比叡山の最澄の功績です
というか、日本仏教の、インド中国に無い、独創です


インドのお釈迦様の時代の仏教は、出家主義で、仏教の修行をするには、肉食妻帯せず、寺院で生活しなければなりませんでした
これは、日本以外の国では今でも同じです
日本の坊さんは肉食妻帯してますから、タイやミャンマーでは、在家の席にしか座らせてもらえません
まあ、馬鹿にされています
で、日本の肉食妻帯してる坊さんは堕落しているのではなくて、実はこの一心で、形に捉われることなく信仰をしているのです


ここで終わったら、何が言いたいかさっぱりわからないと思います


もともとは、仏教哲学には空観と唯識観という二大潮流があって、空観はナーガルジュナの大智度論、唯識観はバスバンドゥの成唯識論に代表される、膨大な論書が作成されました
それが、今から約1300年前に密教が集大成される時期に、胎蔵曼荼羅(空観を主題にしている)と金剛界曼荼羅(唯識観を主題にしている)に整理されます
この胎蔵曼荼羅(北インド)と金剛界曼荼羅(南インド)はインドでは全く別の土地で成立して、中国でも別個のものとして礼拝されています
胎蔵曼荼羅はそれだけで世界を全て説明し、金剛界曼荼羅もそれだけで世界を説明し切ってしまいます





それを、金胎不二として、両部曼荼羅としていっしょにしたのが弘法大師です
弘法大師が初めて、統一感のある世界像をつくったのです
ただし、天台で言うところのという概念はないのです
不二(ふに)と言うだけで、どういっしょなのかは提示されません

コインの表と裏と、コイン自体と、まあ、論理的には親切な考え方でしょう
で、天台は空仮中と三諦として、これをまとめて一心としました

だからどうなの、ということですが

出家-->真実の生活(精進料理、妻帯せず)
在家-->仮の生活(肉食妻帯)

とします


出家-->真実の生活-->空
在家-->仮の生活-->仮
形に捉われない生活-->現在の日本仏教-->中

ということになるのです

真言宗では、今でも、出家主義が建前です
それは、空と仮があくまで別個で、人間は空を理想とする存在だと考えるからです
これが、肉食妻帯すれば、堕落です

天台宗は、日本仏教の母山として、念仏、禅、法華といった各宗を生み出しましたが、一心で、形に捉われず、仏教を追及しています
それが、大乗仏教の本質です

日本で、最澄が具現化したのですよ
大乗仏教を
お忘れなく

まあ、たとえば

肉を食べたら、鬼ですか?
結婚したら不浄ですか
人間の価値は、そんなことでは評価できません

宗教の名において、生活の価値に上下を作らない思想が、大乗仏教なのです
崇高に感じられる神という概念や、一見厳格な戒律を、すべてとして位置づけ、同時にどのような形式も否定せず、心というシンプルで、もっとも身近なことにだけに注目するのが仏教です

論理的に言えば、仏教というレッテルもいりません
全く自由です
それでいてという、我執や妄想の全くない純粋な「生の世界」と常に交流し続けます

人間から、妄想と自分勝手を取り除けば、かなりに近くなると思いますよ
それが、仏道ですね


身近な表現で言えば、理想だけ追求してもダメで、現実だけ重視してもダメなんです

理想と現実、両方あるのが人生です



理想でもない、現実でもない、なにが重要なのかというと、慈悲ではないですか

理想だけ求めて他人を非難し、欠点を探しても、なにも解決しません
現実の利害得失だけ求めても、出口のない堂々巡りが続くだけです


一番大事なのは、理屈でも、辻褄合わせでもありません
両方十分理解したうえで、今、人のために出来ることをすることです

理想を語り現実を知り、そして、苦しみを除き喜びを与えるのです


己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり



2009/05/23

パラレルワールド

仏教哲学の模式図です




わかりやすくはないです


基本的に、仏教は、
「人は感覚器官で脳内にイメージをつくって、実態そのものでなくて、そのイメージにしがみついて生きている」
と、考えています


こうしてモニターを見て、字を読んでいただいていますが
字が見えているのは、自分の目でモニターを見て、視神経を通って信号が脳に行き、脳内で意味を考えているわけです


パッと目をつぶって見えていなくても、モニターはそこにあります
見えている字と、モニターに映っている字は別々なのです


で、これは、目だけでなく、耳で聞く音、鼻で嗅ぐ匂い、舌で感じる味、体で感じる外気の寒暖など、感覚器官で外界を感じて、自分の脳内に印象を作っています
そして、「外界」と「脳内イメージ」は、常に別々の現象です


 

もともと一つの現象も、脳内イメージは、人によって、必ず違うものになります

「見る」という一つのことで考えても、見る角度が別々ですから、必ず見える姿は違ったものになります 

 

先に結論を書くと、神とか仏というのは、人間の作った、脳内イメージです
宗教も、言葉で書かれた脳内イメージです

ユダヤ教のヤハウェ(旧約聖書)
キリスト教のゴッド(新約聖書)
イスラムのアッラー
などは、エルサレムの神の一つの神格の別々の脳内イメージだと考えることができるのです
もっと言えば、その唯一神は、仏教で言うところの大日如来でもあると考えることもできます

その脳内イメージの違いを議論していたら、いつまでも一致することはありません
もともと別々なのですから

で、見える前の世界を説明したいのですが・・・
説明してしまったら、その説明は脳内イメージです
そこんところが困るのです

目の前のモニターで、この文章をお読みいただいているのですが、
「言葉で説明される前のモニターをなんと言うか?」
などと、聞かれても困ります

「字を写す機械」「ブラウン管のようなもの」「発光する点の集まり」などなど、いくらでも説明のしかたがあり、そのどれも正しく、また部分的な説明でしかありません

観察者の数だけ世界があるのです
パラレルワールドですね

ですが、実際は、一つの世界しかありません

その一つの世界には、時間はありません
昨日と今日、過去と現在、など時間の経過は、脳内イメージです

空間もありません
感じる前の世界ですから、あっちとこっち、上と下など決めようがありません

仏教の般若心経では

「不生不滅不垢不浄不増不減
生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず」

と表現します

ナーガルジュナの中論では、八不(はっぷ)と言って説明しています

宇宙においては 

何ものも消滅することもなく(不滅)
何ものもあらたに生ずることもなく(不生)

何ものも終末あることなく(不断)
何ものも常恒であることなく(不常)

何ものもそれ自身と同一であることなく(不一)
何ものもそれ自身において分かたれた別のものであることなく(不異)

何ものも[われらに向かって]来ることもなく(不来)
[われらから]去ることもない(不去)

戯論(形而上学的議論)の消滅というめでたい縁起のことわりを説きたもうた仏を、もろもろの説法者のうちでの最も勝れた人として敬礼する

◇引用◇   中村元著「龍樹」(講談社学術文庫)   320ページ

 

あなたが、自分のパラレルワールドこそ正義だと主張しても、それは限定的解釈です

お互いの解釈をぶつけ合っても問題は解決しません

一つしかない真実は、私利私欲や経験を離れて、智慧でなければつかめない、ということになります

 

「どこそこの神を信ぜよ」、などは、偶像崇拝

「死の恐怖」、などは、自分で作り出した感情

「厄年、手相」、などは、集団催眠

「体の痛み」すら、激しい脳内反応

それが、仏教の基本的考えかたということですね


2009/05/21

仏となる過程


仏涅槃図(重文) 長保寺蔵

 

ちょっと抽象度の高い話


 


仏教では、涅槃経で「一切衆生悉有仏性」と言い切って、つまり生きとし生けるものすべて、いつかは仏となると断言している
これが、お釈迦様の遺言で、一代の説法で、最後まで、このことは言わずにいた


どんなにクダラナクても、極悪でも、無気力無意味でも、仏となる過程ということになる
努力とか忍耐とか頑張りや自己犠牲など、してもしなくても、仏となるという結末に変わりはない


となると、修行とか、勉強は、どうでもいいことになってくる
慈悲や善行など、どうでもよくなってしまう
どっちにしろ、仏となるのです


で、これ、やっぱり、そんなにうまい話はないわけで


法華経寿量品に「得入無上道 速成就仏身」(無上の道に入ることを得させて、速やかに仏の身を成就せしめん)と、「無上」「速」とハッキリとした方向感を打ち出している


なにをしてもいいわけではなく、「無上の道」にはいり
いつまでもボンヤリしていていいわけでもなく、「速やかに成就」する


つまり


「仏になる性」を「無上の道」により「速やかに成就」して「仏身」になる


仏性-->無上道-->速成就-->仏身


ということです


で、仏教2500年の歴史は、すべて、無上道によって速やかに仏身を成就することを(さすがに、さまざまな混じりけはあるものの)目標にしてる、ということになります

無上の道を速やかに進んでいる状態が、つまり、仏となる過程であるということです


 


弘法大師は、「三密加持すれば速悉に現る」と言って、まあ、やはり、スピード感を重視してます
ただこれ、既に法華経にもあるわけで、正念株の最後の祈願で唱える言葉(真言で加行した人はわかるよね)は寿量品からとっているのです


 


無上であることと、速やかであることが、「なにをしてもいい」とか「努力は無意味」とかを否定しているのです

ま、ですけれど、その一方、なんでもかんでも、仏となる過程であることにもなるのです

いかに無上であるか、いかに速やかであるかが問われつつも、すべては、仏となる過程として肯定されます

仏の導きは、ですから、無上であること、速やかであることを念頭になされている、ということになります

昨日は有益でも、今日は無駄
今は正義でも、明日は悪

などなど、道を進んでいるから、変化していきます

決まった答えはないのですが、我々には仏性が備わっているのですから、どうしても無上で速やかな道を探してしまいます

それが、今のあなたです


瑜伽師地論から見た「お堂の前で拝む時のコツ」

長保寺 国宝本堂   お堂の前で拝む時のコツ 1 微笑む 大事なコツです 2 本尊様の名前を呼ぶ 3 息を吸う あなたを守る力が体に入る  と思う 4 息を吐く その力を分けてあげる  と思う それを繰り返します 疲れたら止めて、本尊様に感謝を伝えます 守る力を受けるのが縁と他力...