三密加持は、平安時代に真言宗と天台宗において精緻に体系化された仏教の修行法です。両宗派はともに三密加持を重視しながらも、その依拠する経典や解釈の幅において異なる展開を見せました。
弘法大師が開いた真言宗が、主に『大日経』や『金剛頂経』といった純粋な密教経典を中心に三密加持を理論化したのに対し、伝教大師に始まる天台宗は、『法華経』や『阿弥陀経』、『般若心経』といった経典類をも密教の範疇に組み込んで解釈しました。
そもそも天台宗の土壌には、『法華経』の思想を中心に天台大師が創始した「四種三昧」などの「心一密の禅」や、円仁(慈覚大師)が唐から伝えた常行三昧による「口一密の念仏」が内包されていました。
鎌倉時代に、仏教が大衆にとって必要十分な実践へと変化する素地が、三密加持の中にあったのです。
鎌倉時代に、仏教が大衆にとって必要十分な実践へと変化する素地が、三密加持の中にあったのです。
唯識的解釈をすると、加持の本質は、有漏(うろ)の行者が持つ「依他起性(いたきしょう)」の心が、仏の無漏(むろ)の現行を「増上縁(ぞうじょうえん)」および「所縁縁(しょえんえん)」とすることによって、自らの阿頼耶識(あらやしき)に蔵される無漏の種子を因縁(等流因)として現行化させる、識の転換と言えます。
この構造は、「不完全な心」から「完全な心」が現れるのは、「不完全な心」の中の「完全な心」になる可能性が呼び覚まされるからである、という言い方もできます。
なにかが入り込むのでも、生まれるのでもありません。
ただ、伝統的な唯識論では仏性のない人も想定されているので、加持を説明するには天台本覚思想も必要です。
なにかが入り込むのでも、生まれるのでもありません。
ただ、伝統的な唯識論では仏性のない人も想定されているので、加持を説明するには天台本覚思想も必要です。
1. 「種子(唯識)」と「理具(本覚)」の違い
- 唯識学においては、阿頼耶識に蔵される無漏の種子は、あくまで未来に発芽する可能性(潜勢力)としての「種(たね)」であり、現在はまだ現れていない不完全な状態(始覚の立場)と捉えます。伝統的には、仏性のない人も想定されています。
- これに対して天台本覚思想では、唯識でいうところの「不完全な心の中の、完全な心になる可能性」を単なる未来の種とは見なしません。今ここにある不完全な心そのものが、そのままで元々完全に悟っている状態(本来成仏・理具)であるとします。
2. 天台本覚思想からみた「加持」の再定義天台本覚思想の文脈において加持を捉え直すならば、それは「不完全なものが、外の縁によって完全なものへと変化するプロセス」ではなく、「迷いという幻想によって覆い隠されていた、本来の完全な現実(本覚)が、仏という縁に触れることで、ただそのまま現前(顕現)するプロセス」となります。つまり、唯識のいう「種子の現行化(発芽)」は、天台本覚思想においては「元々そこにあった真実の顕現」とされます。
伝統的な唯識論では仏性のない人も想定しています。人はなぜ悟ることができるのか、を考えるとき、天台本覚思想は無視できない理論と言えます。
唯識論による加持の解釈は、以下の3つの教学的基盤によって構成されています。
1. 二種類の縁(増上縁と所縁縁)による有漏の制約
唯識の因果論において、行者の「有漏の現行心(日常の妄想分別に汚れた意識や末那識)」が、直接の因(因縁)となって仏の「無漏の智慧」を生み出すことは絶対に不可能です。なぜなら、因と果は同質でなければならないという等流(とうる)の原則があるからです。
「不完全な心」そのものから「完全な心」は生まれません。
「不完全な心」そのものから「完全な心」は生まれません。
ここで仏の「加(無漏の現行)」は、行者に対して以下の二つの「縁(条件)」としてのみ作用します。
- 増上縁(ぞうじょうえん):仏の無漏の法界(清浄な識の現れ)が、行者の阿頼耶識の表面へ外側から強力に働きかけ、有漏の心の働きを抑制・阻害しない(ひいては清浄な側へと方向づける)外的な勢力となります。
(仏の側から、始まりも終わりも無く、働き続けている縁。) - 所縁縁(しょえんえん):行者が仏の相好(姿)や功徳を観想(瞑想)するとき、仏の無漏の境地が行者の心の「対象(所縁)」となります。行者の有漏の心(見分)は、仏という無漏の対象(相分)を内面に映し出すことで、一時的に極めて清浄な状態へと方向づけられます。
(行者の側が働きかける縁。修行がこれにあたる。)
2. 阿頼耶識における「種子生現行」の非対称的呼応
行者の側で起きる「持」の本質は、外からの無漏の注入ではなく、行者自身の阿頼耶識の内部における「種子生現行(しゅじしょうげんぎょう)」です。
すでにそこに存在していたものが現れ出るのです。
すでにそこに存在していたものが現れ出るのです。
唯識(特に護法・玄奘の正義)では、衆生のうち、生まれつき「本有(ほんう)の無漏種子」を阿頼耶識に内蔵している者がいるとみなします。これは有漏の阿頼耶識に含蔵されていながらも、その本質は「無漏」であり、悟りの根源となる清浄なエネルギーの種です。
- 仏の無漏現行が増上縁として行者の阿頼耶識に接触するのが{加}です。
- 行者の阿頼耶識の奥底で眠っていた本有の無漏種子が、この増上縁によって直接刺激される。
- 刺激された無漏種子が因(因縁・等流因)となり、行者の心に無漏の現行(等流果)を一瞬にして生起させる。
このとき、仏の無漏(能加)と、行者の内なる無漏種子(能持)の間に初めて「同質のものとしての呼応」が成立します。しかし、現実に機能しているのは行者自身の阿頼耶識内の因果律であり、仏が自己の識を直接行者の識に割入させているわけではありません。この点において、構造は非対称です。
3. 三性(さんしょう)説からみた認識の変革
この加持の瞬間を唯識の根本認知論である「三性説」で解釈すると、認識の相(すがた)が次のように変革しています。
- 遍計所執性(へんげしょしゅうしょう:虚妄の分別)の断絶:
普段、行者の有漏の心(末那識など)は、「これが自分であり、外に仏という実体がある」という自他の絶対的断絶(我執・法執)に囚われています。 - 依他起性(いたきしょう:他縁によって生滅する心)の浄化:
仏の加(増上縁)によって無漏種子が発芽した瞬間、行者の依他起性(心の生滅のプロセスそのもの)から、虚妄の分別が削ぎ落とされます。 - 円成実性(えんじょうじつしょう:真如の実顕)の維持・持続:
分別の消滅により、自他が本来一如であるという真実のありよう(円成実性)が、行者の心に一時的に現前します。
この「真如の現前」を、行者の心が有漏の制約を受けながらもブレずに維持し持続させている状態が{持}です。
結論
- 加(か):仏の無漏現行が、増上縁として行者の阿頼耶識の表面へ外側から働きかけること。
仏の誓願が増上縁の根拠です。 - 持(じ):その働きかけを契機として、行者の阿頼耶識に蔵される無漏種子が発芽(現行化)し、その清浄な状態を維持すること。
一切衆生 悉有仏性(涅槃経)という言葉を、行者の無漏種子の根拠とすることができます。これは天台本覚思想を必要とする部分です。
常に働き続けている仏の心(増上縁)が、行者が仏を所縁(対象)として観じる修行(所縁縁)を接点として行者に接触したことを契機として、行者の阿頼耶識の奥底に元々蔵されていた「完全な心になる可能性(無漏種子=仏心)」が、ただそのまま現前(現行化)します。
その接点は、仏そのものではなく不完全なものでしかありません。不完全であっても成り立つ加持は、仏の衆生を救おうという誓願と、衆生に内在する「完全な心になる可能性(無漏種子=仏心)」の両方がなければ、説明できません。
行者の中の仏心は、行者の分別や想像で作られるイメージを越えて、仏の慈悲の力によって行者の心の深層から現れます。
そもそも、自分でどうにかできる人に、仏の救いは必要ないのです。
