転依は実は、すぐ身近にあります。
今見ている姿(色)は、見られる前は(空)であり、
その(空)を、見ることで、今見ている姿(色)となります。
これを自覚することが、転依への道です。
その道は、どこかで起きる特別な出来事ではなく、この知覚の構造を、繰り返し自覚していくことの中にあります。
転依が起きると、それまで迷いを生み出していた「識(しき)」が、すべて仏のすぐれた認識能力である「智慧(ちえ)」へと変わります。
色が、見る働きの中で現れるのなら、見る働きが自在になったとき、色の現れ方も、自在になると言えます。その自在な見る働きによって、さまざまな力が、神通として現れます。五神通は、神足通、天眼通、天耳通、他心通、宿命通の五つで、深い禅定によって得られるとされます。
- 神足通:思いのままに姿を変え、場所を移す力です。色の現れ方そのものが、自在になった姿です。
- 天眼通:遠く、微細なものを、見通す力です。見る働きが、ふつうの範囲を超えて及びます。
- 天耳通:遠く、微細な音を、聞きとる力です。聞く働きが、同じように及びます。
- 他心通:他者の心を知る力です。仕組みは、あとで詳しく見ます。
- 宿命通:自分や他者の、過去世の生を知る力です。阿頼耶識に蓄えられた、過去の流れを知ることにあたります。
この五つに、漏尽通を加えて、六神通と数えます。
ただし、仏教では、五神通を悟りの証とは考えません。理由は三つあります。
第一に、五神通は禅定の力で得られるもので、悟りの有無と関わりません。仏教の外の行者にも、得られるとされます。
第二に、悟りにあたるのは、六つ目の神通である漏尽通、つまり、転倒夢想を離れて、執着が尽きることです。五神通と違い、漏尽通は、仏教にだけ説かれます。悟りを開いた人の中にも、五神通を持たない人がいるとされます。
第三に、五神通に執着すると、慢心を生み、転倒夢想を、かえって強めます。釈尊が、弟子が神通を人に見せることを戒めたと伝わるのは、このためです。
したがって、転依にあたるのは、五神通ではなく、漏尽通だけです。
他心通を見てみましょう。他心通は、他者の心をのぞくことではありません。識は、それぞれのものです。他者の心は、私の識を動かす縁として働き、私は、自分の識の中に現れた姿を知っています。帝釈天の網の珠が、互いに入りこまず、それでも、どの珠の中にも、ほかの珠の像が映っているのと、同じ構造です。
如来の心を感じるのも、同じ仕組みです。私たちが感じているのは、如来の心そのものではなく、「仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水、仏日を感ずるを持という(弘法大師)」ように、それを縁として、自分の識の中に現れた姿です。如来の心は、煩悩のない智で、縁として清らかです。その姿の精度を決めるのは、受けとめる側の識です。信が深まり、心が澄むほど、その姿は、如来の心に近づくと考えられます。
「如来の心を感じた」という体験は、如来の存在への確信を深めますが、その姿の正確さの証明にはなりません。だからこそ、体験に執着せず、今見ている姿を、自覚していくことが大切です。
神通のような特別な出来事ではなく、今見ている姿が、見ることで現れていると気づくこと。それが、転依への道です。
七仏通誡偈の「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」にある「自らその意を浄くす」ことは、末那識の我執を離れ、転依へ向かうことでもあります。
