大河のほとりに、一本の大きな菩提樹が立っています。川面はゆったりと流れ、朝のひかりが水の上でちらちらと揺れています。広くひろがった枝の上で、フクロウさんと妖精さんが話していました。
妖精
「このあいだまた怒って、友だちにきつい言い方をしちゃったの。もうしないって決めたのに、どうしてまた同じことをしちゃうのかな」
フクロウ
「それはね、あなたの意志が弱いからではないんだよ。この木を見てごらん。枝先は、川風に揺れて見えているね。あれが、ふだん『考えている自分』。迷ったり、選んだり、感じたりする心だよ」
菩提樹のハート形の葉が、さらさらと音を立てました。
妖精
「うん、わたしが今、考えているところ」
フクロウ
「そう。でも、目に見えない根っこがあるんだ。心の一番深いところで、自分では気づけない。仏教では『阿頼耶識(あらやしき)』と呼ぶよ。これまでの経験や行いの影響が、ぜんぶそこにしまわれているんだ」
妖精
「しまわれているって、どんなふうに?」
フクロウ
「何かを思ったり、言ったり、したりすると、その影響が消えずに根っこに残る。それを『種子(しゅうじ)』と呼ぶんだ。怒りにまかせて強い言葉を言えば、怒りの種が残る。すると次に似たことがあったとき、また怒りが芽を出しやすくなる」
妖精
「じゃあ、わたしが同じことを繰り返すのは、その種のせい?」
フクロウ
「そういうことだよ。反対に、誰かに親切にすれば、思いやりの種が残る。人は誰でも、善い種も、苦しみを生む種も、両方を根っこに持っている。そして今の自分は、どの種が芽を出したかで決まっているんだよ」
妖精さんは羽をしゅんとたたんで、足もとの川の流れをのぞきこみました。
妖精
「うう……。じゃあ、間違った選び方をしたら、ますます苦しくなっちゃうの?」
フクロウ
「そうなりやすいね。焦りや怒りの中で間違った選択をすると、それがまた苦しみの種になって根っこに残る。すると次も同じ選び方をしやすくなる。苦しみが、ぐるぐる回ってしまうんだ」
川の渦が、くるくると小さな輪を描いて流れていきます。流れてきた木の葉が渦につかまり、同じところを何度もまわっては、なかなか外へ出られません。やがて、その葉は渦の中にゆっくりと沈んでいきました。
妖精
「それ、止められないの?」
フクロウ
「止められるよ。そこで、祈りの出番なんだ」
妖精
「お祈り?」
フクロウ
「仏様を思って手を合わせると、心に、澄んだ敬いや信頼の気持ちが起こるだろう。唯識では、それを『信』という心の働きと呼ぶんだ。その心がきっかけになって、根っこに眠っている善い種、たとえば思いやりや落ち着きや素直さが、芽を出しやすくなる」
妖精さんは首をかしげて、川の水面を見つめました。
妖精
「澄んだ心って、どういうこと?」
フクロウさんは川を指しました。
フクロウ
「上流で雨が降ったあとは、水が濁って底が見えない。けれど、底がなくなったわけではない。濁りが、見えなくしているだけなんだよ。
焦ったり怒ったりしているときの心は、その濁った水のようなもので、『信』は、濁った水を澄ませる働きなんだ。
心が澄めば、底に沈んでいた善い種がはっきりと見えてきて、芽を出しやすくなる」
妖精
「種を、新しく植えるわけじゃないんだね」
フクロウ
「祈りは、種を外から入れることではないよ。この木の根っこには、ずっと昔からの善い種が、もう眠っている。誰の根っこにも、思いやりの種も、落ち着きの種も、素直さの種もあるんだ」
妖精
「わたしの根っこにも?」
フクロウ
「もちろんだよ。怒ってしまったときでも、それは消えていない。ただ、眠っているだけなんだ」
川上から、やわらかな風が吹いてきました。風は川面をなでて、さざ波をつくり、ゆっくりと菩提樹の枝のあいだをぬけていきます。ハート形の葉が、さらさらと音を立てて揺れ、木もれびが妖精さんの肩の上で、ちらちらと踊りました。
フクロウ
「祈りは、あの風のようなものだよ。風は種を作ったりしない。ただそっと吹いて、眠っているものを目覚めさせる。
祈りも同じで、もともと根っこにある善い種に風を送って、目を覚まさせてあげるんだ」
妖精
「じゃあ、仏様がわたしの中に種をくれるわけじゃないんだね」
フクロウ
「そうだね。仏様を思うことで、あなた自身の心が澄んで、あなた自身の善い種が目を覚ます。祈りの力は、あなたの外ではなく、あなたの心の中で働くんだよ」
妖精
「むずかしい言葉を知らなくてもいいの?」
フクロウ
「いいんだよ。大事なのは、言葉の上手さではなくて、心が澄むことだ。静かに手を合わせて、仏様を思う。それだけで、風は吹くんだ」
妖精
「風が吹いたら、どうなるの?」
フクロウ
「もともと自分の中に眠っている、良い種が芽を出すと、心が落ち着いて、物事がありのままに見えてくる。焦りや怒りで狭くなっていた心に余裕が生まれて、『こういう選び方もあったな』と気づけるんだ。考える意識が、苦しみの少ない道をはっきり見て、選べるようになるんだよ」
妖精
「それなら、わたしにもできそう」
フクロウ
「それからね、毎日少しずつでいいから、枝先の意識を丁寧に使ってごらん。善い選択をしたり、人に優しくしたり、祈ったりすると、そのこと自体が新しい善い種になって、根っこに戻っていくんだ」
妖精
「根っこが枝先をつくって、枝先が根っこを育てるんだね」
フクロウ
「その通り。ぐるぐる回る輪が、今度は善い方向に回りはじめる」
妖精「じゃあ、わたしが今こうなっているのは、たまたまじゃないんだ」
フクロウ
「偶然ではないよ。根っこに蓄えてきた種と、今この瞬間に枝先で働く意識が、一緒に道をつくっているんだ。だから、今日からの小さな選び方で、これからの道も変えていけるんだよ」
妖精さんは顔をあげて、まぶしそうに朝の川面を見つめました。
妖精
「うん。わたし、明日、友だちにごめんねって言ってみる」
フクロウ
「いいね。それも、ひとつ善い種だよ」
大河はとうとうと流れ、菩提樹の葉が金色のひかりをこぼしながら、やさしく揺れていました。
