帝釈天の宮殿の上に、美しい網が果てしなく広がり、その結び目ごとに宝珠が輝いています。
どの宝珠も、ほかのすべての宝珠を映し、映った像の中にも、また宝珠が映っています。
この宝珠は、人々の奥深くにある心です。
この重々帝網の中に、強く暖かく輝く光があります。
衆生の末那識と阿頼耶識は、途切れることなく続き、心の深いところが迷いから悟りへ転じるまで、輪廻は続きます。
私たちは迷える衆生のままであっても、先に歩む先達がいることは、当然に想定されます。その先達が、迷いから悟りへ転じて輪廻を終えることも、あって不思議ではありません。
その一人が釈尊であるとしたら、どうでしょうか。
そうであれば、釈尊も、悟りを開く前は、私たちと同じように、阿頼耶識がはたらいていたことになります。
迷いから悟りへの転換(転依)によって如来となり、人としての生は終わりましたが、その慈悲は、今も縁としてはたらき続けています。この慈悲の、強く暖かく輝く光を、仏の誓願とも言い、密教では加持力と言います。
その光を受けとめる心があるとき、そのはたらきは、私たちの中に現れます。
